永山茂樹・東海大学教授「『法の支配』軽視の権力政治」

永山茂樹・東海大学法科大学院教授が安保関連法案について「仏教タイムス」(2015年6月25日)に執筆・掲載された原稿「『法の支配』軽視の権力政治」を以下、転載してご紹介いたします。
「法の支配」軽視の権力政治 
                          永山茂樹・東海大学法科大学院教授
 安倍内閣が国会に提案している戦争法は、日本が憲法上できないとされてきた軍事力の行使を可能にするものだ。これは憲法上の大原則を百八十度、転換させることを意味する。それくらい重要なことなのに、憲法の改正手続を経ずに強行しようとする。あるいは、強行してもかまわないと、政治家たちが思っている。このことに、圧倒的多数の憲法学者は強い危機感をいだく。このことは権力者の判断ひとつで、憲法を実質的にかえてしまうことを意味するのではないか、と。そしてこれからの日本では、他の近代国家で類をみないほど、「法の支配」を軽視した、権力者による恣意的政治がおこなわるのではないか、と。二百三十一名の憲法学者が、この法案は違憲であるとして、すみやかな廃案を求める声明に参加している(六月二十日現在)。
 これにたいして横畠裕介・内閣法制局長官は、いままでの憲法解釈の基本論理はかえず、ただ限定的な変更にすぎないと説明する。その言い訳のために、悪評高い砂川事件最高裁判決をもちだした。だが「日米安保条約を違憲とはいわない」という判決を「集団的自衛権の行使は合憲である」と読み替えるという、理屈を超越した曲解なので、これもまた多くの憲法学者や歴代の内閣法制局長官から批判された。そこでついに横畠長官は、「集団的自衛権はふぐのようなものだ」と、奇妙なたとえ話をいいだした。毒かもしれないけれど、肝をとりのぞけば安心して食べられるということらしい。「憲法の番人」にふさわしくない雑な議論で、法制局の権威をおとしめている。組織としての自殺行為であろう。
 しかしもともとこの法案の許容する軍事力が限定的ではなく、むしろ全面的解禁に近いということは、首相自身が公言している。だからこそ「切れ目のない(シームレスな)安全保障」という言い方をしてきたはずだ。つまり戦争法は、危険な部分をとりのぞこう、という発想とは無縁で、はんたいに、軍事力行使にたいする制限をできるだけとりのぞこうという発想で設計されている。
 またかりに集団的自衛権を限定的にしたつもりでも、その作業には失敗している。たとえば、ホルムズ海峡に機雷を敷設されると、国内では灯油がなくなり、寒冷地で凍死者が続出するから、集団的自衛権にもとづき、武力行使をすることができる。自民党の高村副総裁はこう言っている。こんな「風が吹けば桶屋が何とやら」みたいな理由づけで、日本はホルムズ海峡に機雷を敷設した国との本格的な戦争に突入するかもしれない。安倍内閣は、「満蒙の特殊権益」を口実に満州事変に突入した歴史から、なんの教訓も読みとることはないのだろうか。首相は、単なる経済的な理由だけでは集団的自衛権にもとづく武力行使はしないと、あとになって火消しに懸命である。が戦争法はそういう理解が可能なのだから、法的に限定できていないことがはっきりしている。
 そもそもふぐの毒は肝だけにあるのではない。ふぐの毒は、皮や精巣などにあるおそれもあるから、肝をとりのぞけば安心、とはいえない。集団的自衛権の問題に関心が集中しがちだが、戦争法は、他国からの攻撃がない状態での米軍への支援、多国籍軍などへの支援、平和維持活動(国連が統括しないものさえふくめて)への支援・参加など、全体として切れ目のない軍事活動を予定している。
 もしこの法律が成立すれば、自衛隊は、政府がのぞめば、いつでも、どこでも、どのようなことでも「切れ目なく」できる世界屈指の軍隊に変貌する。「積極的平和主義」にもとづいた国家づくりは、実質的には、ほぼ完成するだろう。憲法九条を改正しないままで、実質的に九条改正を果たすことになる。
                          仏教タイムス2015年6月25日掲載
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