講師団講師による勉強会のお知らせ(1)

全国出前講師団が結成されて10日ほど経ちましたが、講師団には続々と依頼が寄せられており、その多くは派遣する講師も決まっています。7月20日現在、14件の依頼があり、そのうち11件の講師が決まりました。

この共同ブログで、順次紹介していきたいと思います。まずは、第1弾です。

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講師団講師による勉強会のお知らせ(1)」への1件のフィードバック

  1. 参議院で審議入りしたので、少々書いて見ました。よろしければ、掲載してください。また、ご紹介していただいたブログにもアップしてあります。

    笹沼@静大

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    安保関連法案と日本国憲法について
     
    笹沼弘志(静岡大学)

     安保関連法案と日本国憲法について、今だからこそ、三つのことを指摘したい。

     第一に、集団的自衛権行使を認める案保関連法案は憲法違反である。
     
     それは、次のような内容と手続き両面を指摘するだけでも明らかだ。
     まず、存立危機事態とは何か。政府は全く説明できない。武力攻撃事態とどのように異なるのか、それすらまともに説明できない。状況に応じて総合的に判断するという。明確に説明できない漠然としたもの、不明確なもの、だけれども、内閣が判断するから安心して従えという。

     これは内容と手続き、二つの点で重大な問題だ。

     存立危機事態とは何か漠然として不明確で説明し得ない。国民の、自衛官の命を危険にさらす、命がけで戦ってこいという重大な義務付けを行う法律なのに、漠然不明確。これだけで憲法違反だ。

     さらに、内容が不明確だけれども、内閣が判断するから安心して従えというのは、これは民主主義の否定、内閣による専制政治、内閣クーデターだ。

     第二 個別的自衛権と集団的自衛権とは質的に全く異なる。

     どう異なるのか。個別的自衛権は武力行使に限らない多様な方法がある。しかし、集団的自衛権とは、国連憲章で初めて法的に認められた国家の実定的権利、国際法上の権利であって、武力行使を必然的に伴うもの。個別的な自衛のための措置は軍隊がなくてもできる。それは砂川事件最高裁判決が明確に指摘している。軍隊がなくても他国に守ってもらうことができるという。確かにそれも一つの方法だろう。
     それに対して、集団的自衛権は、武力、軍隊なしには行使できない。武力を行使するということは戦争をするということだ。これが決定的に異なる。
     今まで自衛隊は憲法9条があるから集団的自衛権を行使できないとされてきたから、海外で武力行使をすることがなかった。また、紛争の平和的な解決に努力してきたから、わが国に対する武力攻撃も受けず、自衛隊が実際に戦闘行為を行うこともなかった。しかし、集団的自衛権行使容認するということは、戦闘行為を行う途に踏み込むということだ。

     果たして、政府も含め、われわれは、自衛隊が実際に他国と戦闘を行うこと、戦争をするということを受け入れる準備ができているのだろうか。
     これはつまり、自衛隊を、戦闘行為を行う組織として本当に受け入れているのだろうかということだ。
     
     そこで第三点。 そもそも、自衛隊は憲法9条に適合しないのではないか。立ち止まって考えざるを得ないのではないか。

     自衛隊は違憲だ。衆院特別委員会で参考人の憲法学者小沢さんがそのように断言した時、自民党の委員は嘲笑するかのように、今時自衛隊を違憲だというのかと驚いてみせた。そして、いまや自衛隊が合憲だというのはみんなが認めている、自衛隊は災害救助などで国民に支持されていると語った。
     
     それは自衛隊が武力を有する組織、武装組織として支持されているということなのだろうか。災害救助に戦車や戦闘機が必要なのか。

     自衛隊が武装集団として支持されているということは、戦車が敵兵をどれだけ打ち倒したとか、戦闘機が敵機を何機撃ち落としたとか、軍艦を何隻沈めたとかそういうことではないのか。はたして、そうしたことで自衛隊が支持されているのか。

     はっきりいおう。自衛隊を軍隊として、自衛のための武力を持った機関として国民の多くが支持しているという事実は存在しない、あるいは証明されていない。

     ここで、一度、軍隊を持つということを考えてみよう。軍隊とは武器をもった人間の集団だ。彼らの多くは若者だ。明日戦闘に行けと命令されるかもしれない若者たちが日々、敵をつまり人間をいかにして効率的に殺すかを考え、訓練している集団だ。彼らを、社会から切り離して基地に隔離し、集団で生活させ、訓練させる。そして、明日戦地に向かわせ、敵と対峙させ、殺し殺される場面に否応なく立たせる。それが軍隊だ。
     また、軍隊を持つということは基地を持つということだ。基地を持つということはどういうことか。追い詰められた若者たち、兵士たちと、民間人が共存するということだ。その基地は当然ながら敵の攻撃に合う危険がある。それだけでなく、基地の兵士たちが、極度の緊張状態に晒された兵士たちが、住民に対して様々なトラブルを与える危険もある。沖縄の米軍基地を思い浮かべてみれば容易に理解できよう。

     軍隊を、武力を持つということはどういうことか。国際情勢などという抽象的次元からではなく、軍隊と基地という現実から考えてみるべきだろう。

    さいごに  日本国憲法9条とは何か

     ところで、なぜ憲法9条は戦争を放棄し、それを徹底するため陸海空軍等一切の武力をも持たないとしたのか。それは日本国民が、軍隊を、武力を持つことによって他国を侵略し、他国人民の自由を奪い、傷つけ、殺しただけでなく、自分たち自身の自由や命を喜んで投げ出すような、それを良しとするような世の中を作ってしまったからだ。武力をもつと人や自分を守るどころか、逆に傷つけてしまう。なんて情けない国民なんだ私たちはという悲観、絶望。武力への悲観。それが憲法9条の源だ。決して崇高な平和を求めるという美しい理想、前向きの希望が原点ではない、むしろ絶望から始まっているのだ。
     憲法制定当時、日本国民は、自爆攻撃に象徴される好戦的な国民として世界中の人々を震撼させていた。当然、まったく信頼されなかった。誰からも信頼されない孤立感、絶望、自己否定感情。そこからいかにして立ち上がっていくのか。日本国憲法がとったみちは、他国を恐れるのではなく、武力を捨て去り、一方的に信頼するというみちだった信頼されなくとも一方的に信頼する。それ以外に途はなかったのだ。

     ところで、武力を持つと他国人民や自分を傷つけてしまう情けない人間は本当に日本人だけなのか。

     ナチスドイツ、ファシストイタリア、天皇制軍国主義日本を打ち破り、世界の平和と民主主義、人権を守り抜いたという連合国の武力による平和を受け継ぎ、戦後、冷戦後の覇者となった米国を見てみよう。

     米国が対テロ戦争として、アフガン、そしてイラクを攻撃し、何が起こり、起こっているか。

     イラクのフセインが大量破壊兵器を持っているという口実でイラクを攻撃。大量破壊兵器の存在が怪しくなると、イラクの人民をフセイン独裁から自由にする「イラクの自由作戦」だと称して攻撃を正当化した。

     それが、一体どのような結果をもたらしたのか。中東、アフリカに泥沼の戦闘を拡大しただけではないか。
     さらに、自由と民主主義が売りだった米国で、愛国者法の旗のもとに人民の自由を制限し、アラブ系人民をどんどん拘束した。

     武力をもつと他国の人民を傷つけ、自分たち自身をも傷つけてしまう情けない存在は日本人だけではないのだ。

    武力は、人をモノ、バケモノに変えてしまう恐ろしい魔力を持っているのだ。

     
      

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