志田陽子・武蔵野美術大学教授「幸福追求権、生命権、平和的生存権と安全保障 ――人権論の誤用に歯止めを」

2014年7月の閣議決定から1年が過ぎ、その合憲性に関して多くの議論が交わされてきた安全保障法案。政府は集団的自衛権行使の要件について、あくまで憲法9条の許容範囲内と主張し、前文の「平和的生存権」、13条の「生命・自由・幸福追求の権利」にも言及した。国民の人権が武力行使の根拠とされることの問題点について、武蔵野美術大学の志田陽子教授が指摘する。

 

11本の法案とそれぞれの憲法問題

――今国会における安全保障法制案については、さまざまな論点があり、議論を整理するだけで大変です。

まったくその通りです。2015年5月に国会に提出された安全保障関連法案は、10本の法(改正)案を含む「平和安全法制整備法案」と、新しく創設される「国際平和支援法案」の合計11本の法案を内容としています。

今必要なことは、主権者である市民に判断材料を提供するために、何がしかの知識を持っている学究者たちが、それぞれの立場から話を整理して伝えることだと思います。私も、多岐にわたる問題点のうちのごく一部を取り上げて整理させていただこうと思います。

まず今回の法制案の大まかな骨組みをいうと、1951年以来、日米安全保障条約が対象としてきた《日本の自衛と米軍との関係》という問題系と、1992年以来、国連PKOへの協力として行われてきた《国際平和への貢献》という問題系があります。

2015年8月現在審議の対象となっている安全保障関連法案(以下「法案」といいます)は、このすべての問題系で、自衛隊および日本国全体の軍事的協力のあり方を変更するものとなっています。(図1)

図1

 

これまで日米安保条約では、「有事」は「日本有事」と「極東有事」の二つの線でとらえられてきました(日本国民向けに自衛隊の必要性と合憲性を説明するさいにはもっぱら「日本有事」が強調されてきましたが)。今回の法案では、これを①日本有事、②日本と密接な関係にある他国と共通の有事、の二つに編成しなおしています。これがこれまでの論理と同じ線上で成り立つ再編成なのか、まったく異なる筋のものを導入した無理な制度改変なのか、が問題になっているわけです。

日本の「個別的自衛権」が発動される日本有事については、事態が深刻度によって、「武力攻撃発生事態」、「武力攻撃切迫事態」、「武力攻撃予測事態」に分けられ、武力攻撃発生事態では防衛出動と武力行使が行われます。これらについては「武力攻撃事態対処法」、「自衛隊法」の改正が提案されています。

次に他国との「集団的自衛」が具体化された場面では、事態の深刻度によって、日本と密接な関係にある他国への武力攻撃により日本国民の生命や自由が脅かされる「存立危機事態」、周辺事態の概念を廃止し新たに採用する「重要影響事態」に分けられています。 「存立危機事態」では防衛出動と武力行使が可能となり、「重要影響事態」では他国軍後方支援が行われることとなっています。

この「重要影響事態」は、これまで「周辺事態」と呼ばれているものですが、ここから地理的制約が取り払われました(政府の説明では、これまでの「周辺事態」もすでに地理的な概念ではなかったので、より誤解のない表現に改まったとのことです)。これらは「重要影響事態安全確保法」、「米軍等行動関連措置法」、「海上輸送規制法」、「国家安全保障会議設置法」といった法(改正)案が関わることになります。

さらに、「有事」とまでは言えないけれども、外国の武装集団の離島への上陸や外国軍艦の領海侵入など、警察や海上保安庁で対処しきれない「グレーゾーン事態」も想定され、自衛隊が後方支援活動を行う方針となっています。今回の政府法案にはこれは法案化されず、電話による閣議決定で自衛隊の行動を認める方針が説明されましたが、法律ルールがないことで行政権の独断に陥ることが懸念されています。野党からは領域警備に関する法案が提出されていましたが、衆議院で否決されました。

これらの後方支援では、米軍以外の外国軍(具体的にはオーストラリア軍)も支援する方針になっています。

これらのうち図の②と③の局面で、米軍等と自衛隊が軍事的に協働・共働することが「集団的自衛権」の行使です。今回の法案では、これを認めることそのものが最も大きな憲法問題です。多くの人が「入り口論」と言っているのがここのところです。私自身は「入り口論で議論が止まっている」という言い方は正確ではなく、法制度と憲法の関係は、建物と土台の関係に当たるというイメージでとらえてほしいと思います。

建物の1階部分でさえ、土台(根拠)は憲法外のところにあり、文言上は無理があるところを、国際的に認められてきたルールと道理に基づいて憲法が黙認できるかどうか議論されてきました。そこへ、「ここから先は違憲」と政府自身が認めてきたところに張り出す形で二階を増築することが提案されているわけです。これに対して、もしもそういう増築をしたいならば「土台を変更していいかどうか」について国民が判断をする憲法改正の手続を経るべきではないか、という話にもなるわけです。(図2)

図2「安全保障法制と憲法の関係」

そして次に、建てようとしている建物の案に立ち入ってみたとき、武力行使を行うとされる「存立危機事態」、「弾薬」提供を含む後方支援を行うとされる「重要影響事態」、法案でルール化されないことでかえって行政権の独断にならないか懸念されている「グレーゾーン事態」、そして新しく創設される「国際平和支援法案」で規定されている活動(とくに治安活動と武器使用ルールの緩和と「弾薬」提供の解禁)のそれぞれについて、それぞれの憲法問題があって、今、激しく議論されているわけです。

 

自衛隊は「軍隊」か?――「武力」「戦力」「実力」

――現在の安全保障法制案の中で、憲法問題となるのはもっぱら「集団的自衛権」の問題だ、ということですか。

そういう見解もあります。私自身はそうは考えていないのですが。①の「個別的自衛権」もそれ自体の憲法問題性をはらんでいます。従来の政府見解は、《①だけは憲法を超えた主権国家としての固有の権利(一種の正当防衛)として認められ、憲法もこれを禁止してはいないはずだが、②はその論理を超えるものなので認められない》という趣旨のものでした。

これに対して、昨年7月の閣議決定で《憲法は①の固有の権利を守るためならば②も許容している》という解釈変更が行われ、これを具体化するための法案が今年の国会で審議されているわけです。少なくとも、これがあまりにも重大な変更であるために、そのことが議論の中心となっています。

しかし「①の個別的自衛権は合憲だ」という解釈が日本国において共有され定着したと見ることができるかどうかは別問題です。これについては、憲法研究者の間でも見解が分かれています。私自身は、民主プロセスにおいても司法においても情報を共有し精査した上でクリアしなければならない問題がたくさん、手つかずのままうやむやになっていると感じます。

司法によるコントロールは1950年代から60年代にかけて封じられ、民主的コントロールもこの数年で大きく後退させられています。この状況の中で、国民のコンセンサスが確立したとは言い難い、つまり、建物の1階の下にある土台は、泥地のようなものだと思います。しかし、この問題について、現在の日本の自衛隊を丸ごと指して「違憲か、合憲か」と問うのは、問い方が粗すぎます。災害救助のように合憲の部分と、戦闘型軍事と見るしかない部分とが、同じ組織の中に混在しているからです。

私は、まずは同じ自衛手段の中でも戦闘型軍事とは異なる純粋な「専守」といえる手段と、「専守」の名はついていても戦闘型の軍事というべきものを分けるべきだと思います。前者は、外交的努力や情報収集や自国内で出た被害者の救助、国民への避難支援と救護、シェルターの確保、日本領土内に持ち込まれた危険物や化学物質の無害化処理などのことです。これらは原則として合憲です。他方、後者については、原則として違憲、つまり厳格な違憲の疑いをもって、前者の手段ではどうしても回避できないことの説明責任が個々具体的に政府に課されるべきでしょう。

政府見解では、1954年の自衛隊創設以来、戦闘型軍事にあたるものでも、自衛のための反撃とその装備は「武力・戦力」とは異なる「実力」だから合憲だ、と説明してきました。が、2003年制定の「武力攻撃事態法」とこれを受けて改正された自衛隊法で、自衛隊は「武力を行使する」という言葉が定められましたので、「必要なときには武力そのものを行使するが、それは合憲だ」という論理に代わったと見ることができます。

「武力の行使」を禁じている憲法のもとで「武力を行使する」と言っている法律が存在するのですから、百歩譲っても原則違憲である(違憲性が推定される)ところを、個々具体的に正当防衛の論理に準じる正当事由が証明されてはじめて合憲と認められる、と考える以外にはないと思います。少なくとも、「自衛隊は国際的には軍隊とみなされる」ということを認めた今年4月の閣議決定を機に、自衛隊が行使・保有するのは武力・戦力とは異なる「実力」だから合憲だ、という説明の無理は、きちんとリセットして、その軍事性を直視した議論をすべきでしょう。

そして、残念ながら現時点の私たちの技術力ではどうしても非戦闘的な手段では対処できない事態がある場合、これに対して戦闘型の手段と実行ルールを備えておくことは現時点では致し方ない、と認めるとしても、それは「致し方ないからいいのだ」「いいのだから合憲だ」ではなく、「現在の私たちにはまだ憲法の要請に見合う実力がない」「この状態は違憲だから、一歩ずつでもこの矛盾状態を解消するべく努力しなくてはならない」という論理をとるべきでしょう。

つまり、百歩譲って「今は致し方ない」ということを認めるのであれば、それと同時に、非戦闘型の手段を開拓する「不断の努力」(憲法12条)の具体的義務と、その手段の進展に合せて後者の戦闘的軍事を縮減する義務を負っていると考えるべきです。この考えを確認・共有できない中で、戦闘型軍事に頼る方向になし崩し的に道を開け、「仕方ない、だから合憲だ」と言うことはできないと思います。

 

抽象的な「国民」には解消できない人命リスク

――今提案されている集団的自衛権行使ルールの内容の憲法適合性については。

現在提案されている安全保障法案のセットは、憲法違反となる内容だと思います。これについて取り上げるべき論点はたくさんあり、多くの研究者がすでにいろいろなところで論じています。私はここでは、その中のごく一断面の話として、法案の根拠として国民の人権――「平和的生存権」と「生命権」と「幸福追求権」――が挙げられ、国会答弁でも何度も繰り返されていることの問題を取り上げたいと思います。

私は、「集団的自衛権はいかなる内容もすべて違憲」という立場ではなく、個別的自衛権も集団的自衛権も、その軍事的要素については最も強い違憲の疑いをもってその正当性・必要性・他の手段の不存在、用いられる手段・装備が過剰でないこと、などを見なければいけない、という考えを持っています。

まだ憲法論にはならずサイエンス・フィクションの話だとは思いますが、人類が純粋な非戦闘型の専守防衛を実現できるような技術を手にする日が来て、これを複数の国家で共有する機構を「集団的自衛」と呼ぶような日が来たら、そのような機構に参加し貢献することはこの「疑い」のもとでも違憲とならない可能性がある、と思っています。

しかし、現在の法案の内容は戦闘的軍事そのものですから、巻き込まれる可能性のある人々のリスクの観点から、もっとも強い違憲の疑いをもって見るべきです。違憲の疑い、という言い方はアメリカの憲法訴訟理論からヒントを得ていますが、アメリカでは軍事についてこのような考え方はとられていません。

これは、日本国憲法が9条で武力行使・戦力保持を禁止し、条文全体を見ても軍事に関する権限規定を置いていないことと、前文で平和的生存権を明記していることから、日本型立憲主義のあり方として言えると思います。ここで侵害のリスクにさらされる人権は、国民の生命・生存という最も重要なものであるため、「人権を守るための方策だから政府を信頼せよ」という説明が通る領域ではないのです。

もっとも、最高裁は自衛隊や日米安保条約や米軍基地について、このような厳しい違憲の疑いをもって審査をする姿勢を見せたことはなく、《一見きわめて明白に違憲》でないかぎりは憲法判断そのものをしない、という姿勢をとっています。しかし今回の法案に限っては、そのようにかぎりなく立法者に甘い姿勢で内容を見たとしても、それでも違憲となるのではないだろうか…、とも思うのですが…。

国会の答弁では、国民の「平和的生存権」と「生命・自由・幸福追求の権利」を守るための方策として提案されている法案が、同じ「平和的生存権」と「生命・自由・幸福追求の権利」を侵害する可能性を濃厚に持つという反論を受けています。あるいは、「この法案は国民の権利を侵害する可能性が高い」という指摘に対して、「この法案はまさにその権利を守るために必要な法案なのです」という応答が返されて、議論は拮抗してしまいます。

ここでは、抽象的・集合的「国民」の権利としては、それらの権利は拮抗し、相殺し合うことになり、法案の賛否どちらの側にとっても決定的な根拠とはならないように見えます。相殺したあとに残るのは自衛隊員や基地周辺住民など、具体的な諸個人の権利としての「平和的生存権」と「幸福追求権」の問題です。

だから、抽象的・集合的な「国民」の権利を守るという名目のもとに、具体的な諸個人の権利を剥奪することは、正当化されないことになります。これについては、抽象的な「国民」の人権を目的に掲げさえすれば、そこでとる手段が結果的に具体的な人権侵害を引き起こす可能性については、「考慮済み」として通過してよい、ということにはならないはずです。が、そこに誤解があるのではないか…、ということがまず問題です。

「平和的生存権」を前文で保障し、「生命…の権利」を13条で保障している日本国憲法のもとでは、結果的に起きる具体的な権利侵害として、巻き添えによる人命被害を出すことは絶対に回避すべきことです。とくに憲法前文の「平和的生存権」は、自国民の権利としてだけでなく、「全世界の国民」の権利として宣言されています。

 

全世界の国民のための「平和的生存権」

――「平和的生存権」の保障のしかただけが特別なのですか。

他の人権は、日本国民に保障されるものとなっており(憲法11条、12条)、日本国内にいる外国人には権利の性質上平等に保障できるものは保障される、というものです。ところが「平和的生存権」だけは、前文でとくに「全世界の国民」が「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という言葉が明言されているのです。これは、自国の存立保全のことだけを考えるのでは足りず、日本国が国際社会に対する国是として遵守すべき規範です。このことの意味を、今、立ち止まって考える必要があるでしょう。

先ほど、この権利は法案の賛否どちらにとっても根拠とされているために議論が拮抗してしまうと述べましたが、この権利の意味内容を考えてみると、単純な拮抗にはならないことが見えてくると思います。この権利には二面性があります。国家がこの権利を侵害してはならない、という消極的な側面と、この権利を実現するために国家が何かをせよ、という積極的側面です。

今回の法案では、政府はこの権利をもっぱら国家によって実現される積極的権利であるかのように語っていますが、そこに二重の誤りがあります。ひとつは、この権利の消極的側面を切り落としていること、もうひとつは、積極型の実現方向をとるときには、戦闘型軍事ではなく、「恐怖と欠乏からの自由」という福祉的発想で人間の生存を支援する内容でなくてはならないことが理解されていないということです。

「平和的生存権」は、国家が戦闘活動によって被害者を出してはいけない、という消極的な意味内容を出発点としています。この「~してはいけない」という消極的要請は、法の論理として違憲・合憲の判断のできるものです。この権利を守るために国が何かをするというとき、まず、この権利は軍事に関してはアゲインストな姿勢、国家を制約する姿勢をとっているのだということを理解しておかなくてはなりません。

その上で、世界の平和を守る・構築するという課題は、一国が短時間で達成できるものではないため、その積極面での達成度について違憲・合憲を判断することは、実際上は難しいでしょう。そこは民主政治を活性化して、市民の考えが国政に反映される方向を考えるべきです。望ましい方向としては、国際社会で共有されてきた、構造的暴力を脱するための被害者への救済や弱者への援助を内容とする「積極的平和」や「人間の安全保障」の発想と合流させて貢献の道を探りながら、その内実を充実させていくべきだと思います。その意味では、日本が難民問題にあまりにも冷淡だ、といったことがもっと論題になるべきでしょう。

 

「知らされない」幸福と軍事の凄惨なバランシング

――「平和的生存権」は軍事行動の根拠となるわけではなく、軍事行動によってこの権利が侵害されることを防ぐ意義のほうが優先するわけですね。もう一つの「生命・自由・幸福追求の権利」についてはどうですか。

今回の安保法制案に盛り込まれた武力行使の新要件は、日本の国民自身にとって理論的にも実際的にも有効な限定とはいえないと思います。多くの論者がいろいろな角度からその問題を論じていますが、私はその理由の一つとして、「幸福追求権」の問題を挙げたいと思います。集団的自衛権において武力行使を認める新3要件には「国民の生命、自由、幸福の追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という要件があります。これは憲法13条の一部をそのまま使っている言葉です。

13条は、人権が「個人」それぞれの権利であることを明記したものです。ここでいう「生命、自由、幸福追求の権利」は、「幸福追求権」という一つの権利としてとらえるのが通説です。が、「生命権」と「幸福追求権」を異なる守備範囲をもつ別々の権利としてとらえる見解も有力です。私は東日本大震災と原発事故以来、「生命権」はそれとして独立した対象をもつ権利で、人権のうちで最も明確で基本的な内容をもった権利だという理解に賛成するようになりました。

ここで「生命」が何を指しているかは、私たちの経験から、おおよそ一致したイメージを持つことができるでしょう。自国民の生命そのものがいま剥奪されようとしている、あるいはその危機に瀕しているというときに、法的に許容された手段の範囲内でこれを救済する責任は、国家にあると言えます。

災害時の救助活動がこれにあたるでしょう。外国から攻撃を受けたときにも、人命救済の責任と権限は国家にあると思います。しかしこれはまず避難と救助をもって切り抜けることを主眼とすべきで、百歩譲って国民を避難させるさいの時間稼ぎのために反撃せざるをえない場面が仮にあったとしても、それは個別的自衛権の範囲内で対処すべき問題でしょう。何より、この権利も、国民の生命へのリスクが国家によって増大させられることを拒否する意義のほうが優先することを確認しておくべきです。

これに対して、「幸福追求権」には、「生命」のように一致した意味内容はないのです。この権利の意味は、「幸福」は具体的な個人それぞれのものなので、各人が自分で決めた幸福を追求しているときに、国家がそれを妨害したり、特定の内容を押し付けたりしてはならない、ということです。だから、国家の側が抽象的な国民の「幸福」の内容を想定して、武力行使の根拠や要件にできる性質のものではありません。

たとえば「自衛隊員に戦死者を出すかもしれないし他国の民間人に被害者を出すかもしれない」と考えたらとても幸福ではいられない、という感受性をもった人の「幸福」もあるわけで、国家がある法律を制定した瞬間に、そちら側の幸福追求の権利が根底から覆されてしまうこともあるわけです。だから、幸福追求権を根拠とするかぎり、議論は永遠にひとつの結論に収束させることはできず、賛否の拮抗を乗り越えることはできません。ひとつの結論に収束させることを拒む権利なのですから、当然の道理です。

また「幸福追求権」は、包括的基本権とも呼ばれ、時代に合わせて新しい権利を生み出していく必要があるとき、その基盤の役割を果たします。これに基づき、条文に明記されていないプライバシー権、肖像権などが裁判で認められ、環境権の理論も共有されてきました。ここに嫌煙権・喫煙権を認める論者もいますし、尊厳死の権利や、恋愛の自由や性的自己決定の自由を引きだす論者もいます。このように解釈で新たなものを生み出していく機能が託された権利なので、これが要件に入ることは、武力行使に歯止めをかけるどころか、歯止めを掘り崩すことになりかねないのです。

法案を提出している政府与党側は、「存立危機事態」認定の要件を厳密で具体的な意味での国民の「生命」に絞り込むことを、避けたいのかもしれません。そこに絞り込んでしまえば「それは個別的自衛権の範囲内で考えればいいことだ」との指摘がくるからです。

だから集団的自衛権を認めるために、輪郭のあいまいな「幸福追求権」を要件の中に置いておきたいのではないか、と推測したくもなるのですが、これによって将来、行政権の解釈で武力行使容認の理由づけが広がり、憲法上容認しえない事態に道を開く可能性が出てきてしまうわけです。

たとえば極端にいうと、石油や希土類などの安定供給ルートに支障が出たせいで国民の光熱費や端末機器販売価格を値上げせざるをえず、そのために、現在の快適な生活が現在の価格で実現できなくなる(それはそれで「根底から」危険に瀕すると言えば言えてしまう)という名目で、自国の自衛隊員や他国・自国の民間人の人命が犠牲にされる、ということが理論上は成り立ってしまいます。

このようなバランシングを正面から《善》だと考える人は少ないでしょう。しかし、海外での戦闘や民間誤爆の実情を知らされない一般国民は、そのような凄惨なバランシングによって得られる「幸福」を、それについて考えるチャンスもないままに安穏と享受することになるかもしれません。

現在および将来の政府がそんな愚かなバランス感覚で物事を判断するとは考えたくないですが、そのようなことが理論上可能になってしまうような法は、その目的に反して結果的に、一部の国民の生命・生活を侵害し、多数の国民の幸福と倫理感覚(良心)を広く傷つける可能性をもっているわけです。

もっとも、幸福追求権が解釈によって新しい権利を生み出す基盤となるのは、国民の権利保障を拡充するためです。法律全体を見渡してみても、民法や労働法などで権利救済を拡充する場面では、解釈は柔軟に行われます。しかし国民の人権を一時的に停止したり奪ったりする作用をもつ刑法のほうは、「罪刑法定主義」や「刑法の謙抑性」によって、解釈には厳格さが要求されます。

憲法の解釈の場合も同じで、権利救済のための柔軟な解釈はありうるけれども、国民の人権に深刻な害がもたらされる可能性のある刑事罰や戦闘型軍事については、解釈による意味内容の拡大は許されない、と見るべきでしょう。

とはいえ、その時々の政権担当者がそういう理論的な歯止めを意識してくれるかどうかは甚だ不安です(実際に、いま、意識されてはいないでしょう)。やはり、この権利の誤用を防ぐために、この権利を集団的自衛権の根拠に使うことはできない、と考えるべきだと思います。

国会の質疑の実際としては、中東ホルムズ海峡が「機雷封鎖」され石油供給が滞った場合などが集団的自衛権行使が必要となる事例として挙げられています。これは表向きの説明で、政府にとっての本丸は別のところにあるのではないかとの声も聞くのですが、今の段階では、法文や答弁など「表」に表れた内容を敢えてナイーブに受け止めて考察したいと思います。エネルギーは国民にとってたしかに重要です。

かつて日本が「大東亜戦争(アジア太平洋戦争)」に踏み切ったのも、経済制裁によって石油の輸入が断たれたことが実質的な理由だったわけで、当時の軍部や政権担当者の間でも「自存自衛」を目的とした戦争だという理解がかなりの程度共有されていたわけです。が、結果的に、第二次世界大戦による犠牲と困窮状態はエネルギー不足による苦境を上回る凄惨なものでした。日本はそうした成り行きも含めて「先の大戦を二度と繰り返してはならない」と決意しているはずです。

そうした流れから見ると、経済的危機を武力行使や軍事的後方支援の根拠にすることはできないはずです。この問題は、個別的自衛権による武力行使を法律で認めた「武力攻撃事態法」制定の段階でもっと議論されるべきことでした。その議論を国民が十分に共有しないまま、集団的自衛権へと増築することは、できないことだと思います。ましてこの問題を国民の「幸福追求権」保障の問題にすることは、おためごかしというしかない論法です。これらについては、外交など、別の方策で切り抜けることを、日本国憲法は国の為政者に求めています。

 

後方支援も武力行使と無関係ではない

――内容・輪郭のあいまいな憲法上の概念が加わることによって、従来の個別的自衛権で了解されていた制約から離れていく流れが正当化されてしまうわけですね。制約がなくなるということでは、各種の「後方支援」もそうですね。

「武力行使」そのものではない「後方支援」についても、憲法違反といわざるを得ない内容が含まれていると思います。日本および日本と密接な関係にある国の安全を守るための支援活動としては弾薬提供を含む後方支援が定められ、国際社会の平和に貢献するために制度化される支援活動としては、弾薬提供や現地の治安活動までが活動内容となり、必要な場合武器使用が容認されることになります。

また、そのさいの活動範囲も、「非戦闘地域」という概念が外され、「現に戦闘行為が行われている現場」以外の場所であれば活動可能となるので、従来よりも戦闘地域に近づいたところまで活動範囲となることになります。

それらの後方支援が攻撃の対象となりやすく、重要な物資を伴う「後方」が瞬時に「戦闘地域」になりうること、その結果として護身のための「武器使用」がそのまま武力行使と一体化せざるをえない状況となること、その結果現地の民間人を巻き込む可能性も高まることなどは、多くの議員や理論家や経験者が指摘しています。

2003年からのイラク派遣でもすでにそうした危険な状態が起きていたことが裁判過程や多くの報道で指摘されており、帰国後の自衛隊員に自殺者が多いことも問題視されています。自衛隊員の職業選択の自由と労働者としての権利を保障するためにも、国家の側は、同じ危険を伴う任務でも、戦闘型軍事に関与する業務と、災害時の人命救助やインフラの応急復興など福祉型のニーズに関与する業務とを分け、別々に志願者を募るべきです。これについては現在でも、いつ自衛隊員から違憲訴訟が起きてもおかしくないと思いますが、現在の法案のセットが現実のものとなったときには、問題がより深刻になるのは必至です。

また、仮に運よく戦闘に巻き込まれずにそれらの活動を行えたとしても、戦闘中の軍隊に戦闘用の「弾薬」を提供する行為を「武力行使とは無関係」と言うことは、倫理的にも、攻撃を受ける国の感情としても、通る話とは考えられません。法的には日本国憲法に反し、倫理的には国際社会から疑問視され、現実的には敵対関係に立つことになる相手国から、日本が報復の対象となると考えるべきでしょう。

しかも8月4日・5日の参議院で、日本が提供できる「弾薬」に何が含まれるかを問いただす質疑の中では、法文上はここにミサイルも劣化ウラン弾も含まれること、輸送任務には核ミサイルや毒ガスも「法文上除外されていない」ことが明らかになっています(現在、日本国内では製造も保有もされてはいないはずのものですが、外国が製造・保有しているものを日本の自衛隊が運搬する可能性はあることが指摘されています)。

この「法文上除外されていない」状況が現実化したとき、発射ボタンを押すパイロットは日本人ではないかもしれないけれども、「日本は武力行使には手を染めていない」と考える者がいるでしょうか。さらに、これまで多くの国が行ってきた爆撃やミサイル攻撃では、多くの民間人に巻き添えの死傷者が出ていることが伝えられています。日本国民にとって「幸福追求権との凄惨なバランシング」が起きる可能性は、後方支援についても深刻な問題となってくるわけです。

こうした流れの中で日本が攻撃の対象となったとき、現地での戦闘であれば自衛隊員の生命の危機ということになります。軍事基地の周辺の住民の危険も高まるでしょう。さらに、その攻撃が、現地にとどまらず日本国内の日常生活の中で報復テロ攻撃という形で起きることも十分に考えられます。そうなると、現実の具体的な国民多数の生命権と平和的生存権の問題にもなります。

そういうリスクを飲んででも戦闘型の行動を行うことができるのは、百歩譲っても現に国民の生命が危険にさらされており、警察では対処できない場合だけでしょう。一方、他国の平和、国際社会の平和については、そういうリスクを飲んででもそういう形で貢献したい、と、国民の多数が真剣に考えているかどうか。これを問わないままに現在提出されている案のような活動を行うことはできないでしょう。

 

憲法改正をしても容認できない部分

――では、憲法改正をすれば、そのような「平和的生存権」や「幸福追求権」の守り方をすることもできる、ということになりますか?

そう考える論者もいらっしゃると思います。ただ、総議員の3分の2と投票した国民の過半数がOKすればなんでもOKだというわけではなく、私はそこには限界があると思います。まず、自分たち自身の生命がかかっている純然たる自衛(個別的自衛)に限っては、主権者の判断に委ねることになってもよいのではないか、と思います(これについて、一人の主権者としての私自身のオピニオンはありますが)。しかし、集団的自衛権に基づく武力行使を認めることは、今の案のままでは憲法改正権の限界を超える部分を排除できないと思います。

国際紛争においては、ある国家の軍事行動が真の自衛または人道的介入として致し方ない手段であったのか、それとも覇権維持を動機とした制圧行動であったのかは、リアルタイムの場面では判然とせず、ある程度時間が経ってようやくわかってくる、ということがほとんどです。ベトナム戦争、イラク戦争など、これまでの現代史がそのことを物語っています。

そうであれば、他国の軍事行動に協力することについては、いくら慎重であってもありすぎることはありません。覇権、つまり国際社会における主導的影響力を得ようとすることは、それ自体は悪ではありませんが、軍事ではない方法と努力によって追求されるべきものです。これを戦闘型の軍事力によって追求することは、政治的には覇権の「防衛」という言い方がなされるとしても、法的・客観的には「自衛」ではなく、「侵略」または限りなく侵略に近い「制裁」に属すると思います。

侵略、すなわち自国の利益追求のために軍事行動を起こすことは、日本国憲法を論じるまでもなく、国際法上、違法です。独自の歴史的事情から国際法よりも厳しい限定を自国に課している日本では、軍事行動によって国益や覇権の追求を自ら行うこと、および参加することは、現行憲法上違憲であるだけでなく、憲法改正によっても解禁できないものでしょう。第二次大戦後に日本が主権国家として再生したさいに依って立つことになった原理(国家存立の倫理的土台)に照らし、そこまでは言えると思います。

そのような侵略型の軍事行動に加担者として巻き込まれる可能性を完全に排除した上で、政府が現在説明しているような純粋な自衛としての集団的自衛権としてのみ、武力行使を解禁することが、実際上可能なのかどうか。ここで「可能だ、そこは政府を信頼しよう」といえる立場からは、憲法改正手続を経ればこの種の集団的自衛を容認することもできる、と考えることになるでしょう。

しかし、ここで「それは不可能だ、そこは政府を敢えて信頼しないことが立憲主義の要請だ」という立場からは、憲法改正によってもこの内容を容認することはできない、と論じることになるでしょう。私は、戦闘型軍事を前提とするかぎり、そして歴史を見る限り、「不可能ではないか…」と思うため、後者の立場に近いことになります。

つまり、現在提案されている安全保障関連法案をそのまま成立させ、これを容認する憲法改変を行うとするならば、覇権追求型の軍事行動に加担してしまう可能性を排除できない点で、現行憲法に反するだけでなく、憲法改正の規範的限界をも超えて国家存立の土台を壊乱してしまうと私自身は考えています。

ただ、これは、「国家として」できない、ということです。「外国の軍人が日本のために血を流すリスクを引き受けているのに、これではすまないだろう」「日本の自衛は国際環境の変化を考えると日本自身だけで守ることは不可能で、外国の軍隊と共同対処しなければならない」と考える日本人が、個人の資格で、日本の法律に反しない範囲で外国の軍隊に協力することを、日本国憲法は禁止していません。

そこから先は当該の外国軍隊の制度に委ねられる問題となりますが、そのように自発的に考える日本人が、外国の軍隊に入隊して日本や世界の平和のために貢献しようと望むことは、現行憲法上、自由です。

平和のための貢献にはさまざまなチャネルがあり、その中で、日本は軍事行動は行わないと自己決定をした国家です。「それでは国際社会に対して説明がつかない」、という発想ではなく、そこを国際社会に対して十分に説明し、軍事以外での貢献の道を対話によって模索することが、国政担当者たちに本来信託されるべき仕事だと思います。

日本はその道をとらずにずるずると建前と現実を乖離させていったため、そのツケがたまって、「いまさらそんなことは言えない」という苦境に立ってしまったけれども、一主権国家として、どこかで思い切って一回はそれをやらなければいけない、そういう岐路に来たのではないでしょうか。

 

個人の幸福追求から発展する政治的「良心」と国家の「名誉」

――今回の一連の出来事に対して、「でもこの成り行きを選んだのは有権者ではないか」という声をあちこちで聞きますが…

もしも立憲的手綱のない手放しの民主主義を前提とするならば、いったん選んだ政権が何をしようと選んだ側の責任だ、と言えるかもしれません。しかし日本の民主主義は、民主主義の手続によって決めたことであっても逸脱してはならない限界がある、という「立憲主義」を組み込んだ民主主義です。

そのような立憲民主主義のもとにある政治では、立憲主義を逸脱している事柄についてはその事柄ごとに憲法適合性を問題にすることはできます。また、国民は、代表者を選んだ後に代表者に要望を伝える自由もありますし、「私があなたを選んだのはそれのためではない」という意見表明をすることもできます。そのために、選挙とは別に「請願権」(憲法16条)というルートも保障されているわけです。

先に、「幸福追求権」の話をしました。人によっては、自分の考える幸不幸の問題が、自分個人のライフスタイルや幸福観の自由から出発して、政治的に表明したい事柄に発展していくこともあります。今、安保法制案については学生と有識者たちが共同してアピールを行い、多くの市民がこれに参加していますが、こうした場面がそれです。ある考えが、個人の幸福追求の自由にとどまらず、政治的良心として表明され、それが請願という形になったり、選挙時に有権者の意思へと具体化される場面があるわけです。

普通の感受性をもった多くの国民がその実態を知ったら「良心が痛む」「良心が耐えられない」と感じるであろう状況が、現実の世界にはたくさんあります。この関連でとくに問題にしたいのは、今回の法案や昨年7月の閣議決定に先立って、昨年4月に閣議決定された武器輸出の解禁です。

先日(8月4日)、テレビの報道番組で、アメリカ軍のドローン(無人機)による攻撃の実態が日本で初めて公開されました。ロケット弾やミサイルが武器ではなく後方支援で提供可能な「弾薬」であるというならば、人間が搭乗しない無人機が「弾薬」にカテゴライズされるという無理が、いずれ持ち上がるかもしれません。それはなかったとしても、日本の産業界はすでに武器を輸出することができることになっているので、ここに今回の法案が通ると、外国軍隊が日本から購入したメイド・イン・ジャパンの無人機に、日本が後方支援で提供するメイド・イン・ジャパンの弾薬が搭載されるという図は、十分実現するでしょう。

かつて、第一次湾岸戦争で、日本は「金を出すだけか」と非難され、この非難を政治的トラウマにしてしまいました。しかしこの安保法制案が通った後に、日本がもっと広い国際社会から受ける失望と非難は25年前とは質的に異なる重いものになるのではないでしょうか。たとえば、経済の応急的活性化のために、憲法前文に明言したはずの「名誉」をかなぐり捨てた国家と見做されるようになるのではないでしょうか。

ドローン(無人機)による民間人誤射が実際には多いこと、これを遠隔操縦するパイロットの多くがPTSD(外傷性精神障害)に陥っていることも報道で指摘されました。自身が戦闘に巻き込まれたことによる精神的外傷はもちろん深刻ですが、自身の生命には危険のない場所で攻撃指示をする人々も、精神に外傷を負うわけです。これは、人間が良心をもっていることの証拠でしょう。

日本人のうち、この種の問題に鈍感ではいられない人々の「良心」と「名誉」の問題は、無視してはならない政治的課題でしょう。この「良心」と「名誉」が民主主義のプロセスの中で一定の共有を得たとき、まずは少なくとも2014年4月の武器輸出を解禁した閣議決定にさかのぼって、日本の安全保障法制を根底から見直す動きが出てほしいと思います。

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本稿は、2015年8月7日に行われた「安保法制を考える司法書士の会」で筆者が行った講演をもとにしたものです。

また、現在、憲法研究者有志で「全国出前講師団」を結成し活動していますが、筆者がこの活動を通じて講演や懇話をするさいには、おおよそ本稿のようなお話をする予定です。

 

以上がSYNODOSで掲載された、志田陽子・武蔵野美術大学教授のインタビュー形式のお話「幸福追求権、生命権、平和的生存権と安全保障 ――人権論の誤用に歯止めを」です。

志田教授のプロフィールと著書が以下で紹介されていますので、ご確認ください。

http://synodos.jp/politics/14808/3

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